読める日の停車駅

千を超える蔵書を少しづつ少しづつ読んでいます。読んではいるものの、元来読んだ内容を忘れやすいので、内容や雑感を記しています。誰かに見て頂いている態で書くのは大変おこがましいので、淡々と記録のような書き方をすることもあります。

トーマス・マンの短篇「悩みのひととき」の通読により受ける詩人シラーの熱い情熱は、自分自身を奮い立たせるきっかけにもなる

 トーマス・マンゲーテとともに師事していた1700年代の有名な詩人に、フリードリヒ・フォン・シラーという人がいる。

(designACのイラストよりシラー)

 トーマス・マンの短篇の中に、シラーの創作までの苦悩と燃えるような情熱を綴った一作「悩みのひととき」がある。


 作中、詩人シラーは持病に悩まされ、これまでの自身の作品の在り方にさえも、ストイック過ぎる視点で見つめ直す程である。
所謂創作活動がスランプに陥った状況を想像するのであるが、彼はここから自分自身に鞭を打ち、作家としての不屈の精神を燃えたぎらせ、作品へ昇華させていくのである。

─悩みをそのままにしてどうする
─くよくよ悩む前に働け

 マンからシラーへの多大なるリスペクトが窺い知る事が出来るこの作品から、シラーのこの燃えるような強靭な精神を時々思い出しては、自分自身の気持ちを奮い立たせている。
小説でありながら、とても為になる作品である。

城崎の情景を思い浮かべながら志賀直哉の「城の崎にて」を読んでみる

 兵庫県城崎温泉が舞台となった、随筆とも小説とも取れる志賀直哉の短篇「城の崎にて」

 山手線の列車に跳ね飛ばされながらも、奇跡的に一命を取り留めた主人公(作者自身)が、療養のため滞在した城崎で体験した幾つかの小動物の「死」とその間際に、自身の命を照らし合わせるという非常にシュールな作品である。

 悉く癖と無駄を削り、読みやすさを追求し、死なので洗練された文体は、通読した後でもずっと印象に残っている。


(ひょうごツーリズム協会様が無料公開されていた画像を借用)
散歩の道すがら、主人公が鼠の窮地に遭遇した橋はここなのかも…⁉

 さて、写真で見る限り城崎温泉街は非常に長閑な場所に見え、夜は一層美しい印象であるが、この「城の崎」にての情景は、温泉街の風景はさて置き、家の周辺でも意識すれば出くわすと思われる日常的な風景(蜂、鼠、井守の死なので余りないかもしれないが)が主で描かれており、周囲の物については、宿や橋、散歩などの表現ばかりで読み手の想像のみが頼りであることが、却ってまだ見ぬ城崎の地への旅情をかきたてるのである。

そして、舞台は城崎であるから映えているし、それ以外うってつけの舞台はないと思う。

長閑な温泉に美味しい料理。
ぶらぶらと昼と夜の街並みを散歩。

城崎への思いが膨らむばかりである。

ヘミングウェイ「白い象のような丘」にある、男女の修羅場の向こうに仰ぐ雄大な山なみはどんな風景だったのか想像する

 スペインの駅の酒場で列車を待つ、ある男女の会話を切り取ったヘミングウェイの有名な短篇は、私の持っている作品集「キリマンジャロの雪(瀧口訳)」では、タイトルが「白い象のような丘」であり、よく目にする方のタイトルは「白い象のような山並み」である。

彼女の妊娠の話から徐々に緊迫しつつある二人の会話の中、ふと彼女が言った白い象のような遠くの山並みは、話のせせこましさと対象的にどのように映っていたのか。

こちらは私がとある山並みの風景を撮影したものであるが、恐らくもっと澄みきって美しい眺めだったに違いない。

一方で彼は彼女にひたすら堕胎を勧めるのであるが、明らかに彼女に分があるように思える。
以前から持ち上がっていた話の続きなのか、落ち着いている風を装い、明らかに彼は狼狽している。

しかし読み手は彼等の会話から雰囲気を読み取るのであって、決して妊娠・堕胎を明文化していないところが作者の妙である。

蠅の視点で読んでみる・横光利一「蠅」

 馬車の崩落事故から唯一生還する蠅を中心に描いた、小説の神様横光利一の名短篇「蠅」

 客を乗せた馬車が崖下に落ちてゆく中、唯一事故を予見しながらも無関心に飛び去る蠅と、それぞれの事情を抱えながら馬車に乗り込んだ乗客たちが無情にも命を落とす様が実に印象深い。

 普段疎ましい存在である蠅が、横光利一の卓抜した文の世界の中だけは、魅力的なものに思えてしまう。