読書と随想の日々

本に費やした時間を何かに還元出来ないかと、読んだ作品の雑感・考察や本の紹介などをしたいと思います。

読書していると脳内がテレビ代わりになるので、テレビは要らないと思う持論

 本格的に本を読むようになってからというもの、自分からテレビを点ける事がほとんど無くなったように思える。
点けても本や作家に関する番組ばかりのような気もして、それもほとんど機会が無い。

 強いていえば、YouTubeで特定の文学作品についての四方山話チャンネルや好きなアーティストの動画を時々観ているぐらい。

 一つは最近観たい番組が、皆無に近い位無くなったということもあるが、やはり読書の影響が大きいように私は思う。

 本を読んでいると頭の中に映像をイメージする習慣がついてくるので、それで十分映像を観ている気になるし、却ってテレビの喧騒が疎ましく思えてくるのである。

また、難しい作品を読むと眠くなってくることが多々あるが、それは恐らく通常より脳内でイメージする力を使うからではないかと思う。

 それから、短編小説を以前よりたくさん読むようになった。

 できる限り多くの作家に触れたいため、一編ずつ間を空けながら色々な作家の作品を代わる代わる読むと、新鮮味も損なわない上、作品についての雑感、ひいては物事に対する自分の考えを短時間で引き出す訓練にも繋がる。
と、まあこのように考えている。

 勿論、どうしてもテレビから情報を得る必要も出てくるのであるが、それまではテレビは無くても却って落ち着く。

本を読むこと、本を眺めることは愉しい。

テグジュペリの「夜間飛行」の主役リヴィエールに見る経営者の熱き魂とその哲学

 テグジュペリの中編作品「夜間飛行」の主役、夜間郵便飛行の支配人リヴィエール。

 彼は非常に冷徹で恐い。
これはあくまで下の立場から見たリヴィエールの姿であり、実際職場にこんな上司が居たとしたら、毎日背筋がすくむ思いであろう。

 作中の彼は職員と職工との親密な関係にもメスを入れ、仕事でミスをした者は情け容赦なく即刻解雇する等、一切に妥協を赦さない。

 荒天により、部下の飛行機が遭難し、死が目前に迫った際も最期の時まで冷静さを欠かさない。

 一見鬼のような所業で、そこまでしないでもいいのでは?と感じられるが、それも一重に企業経営を背負っているからこそ、個人を殺し公の顔を示す、強く熱い責任感の現れなのであると感じる。

 勿論、リヴィエール自身も葛藤し、毎回身を切る思いで決断する人間らしい姿も描かれており、事業の公平性のため、自分を最も犠牲にしている強靭な精神をここに学び取る事が出来る。

 しかし一度公の立場になると、それをおくびにも出さない強い姿をみせる。
自分は企業の顔であり、自分の行動のひとつひとつが経営の善し悪しを左右する。
だから一切の妥協を見逃さず、常に経営に最適な決断を下す。

 これを公と見るならば、これだけ筋が通った徹底ぶりが却って格好良く、なってほしくはない反面、理想上司像として思えてくる。

 この文学作品ひとつを通読するだけでも、経営の精神を十分学び取る事が出来るのではないだろうか。

「集金旅行」を通読すると近代日本文学のエンタメ帝王は、やはり井伏鱒二であると思う

 以前通読した「駅前旅館」から受けるユーモア溢れる文体と粋な遊び心、少しの哀切からずっと注目し続けているのが井伏鱒二先生。

その作風は決して荘厳ではなく、おおらかでテンポも小気味よい。
しかもちゃんと文学している。

 先日、久し振りに著者の作品を一つ通読した。
以前、100円代で新潮文庫の昭和版を購入したまま、棚入れしたままだった作品集「集金旅行」の表題作「集金旅行」である。

 亡くなったアパートのオーナーに代わり、男女二人が、方々に転居した過去の部屋代滞納者(踏み倒しの方が合っているかも)からの集金の旅に出るというものである。

 男はアパート代滞納者への集金、女は過去交際していた男性への所謂ゆすりといった、どんよりとした目的を持って、各地方を廻り寝食も共にする(あくまで健全に)。

 なんと言っても面白いのは、あくまで実直で誠実な主人公の男と、マイペースで明け透けない女それぞれの金の巻き上げ方の違いである。
一方は相手先へ出向く。一方は弱みに付け込んで、宿まで呼び出すといったアンサンブルなのである。

しかしその旅も半ば、女の方がタカリにかけた男と暫く暮らすと言い残したきり、居なくなるのである。
そのラストの主人公の、そりゃないよ…といった態の台詞が如何にも悲哀に満ちながらも乙なのである。
作中そんな素振りも見せなかったが、女(コマツさん)に少し惚れていたということにも思える。

一行で魅せる粋と哀愁。
あくまで主観であるが、そんな表現は井伏鱒二の右に出る者はいないと思う。

法と不実の犠牲者ヨーゼフ・Kに哀悼の意を・カフカの「審判」まとめ

 この小説とも作者の悲痛な訴えともとれる大作「審判」

全編を通して感じるのは、結局のところ権力には抗えないということであり、その前ではいくら目で見える色が白でも黒になり得るのだ。

これが法と秩序を司る裁判所の実態であるというのが、作者カフカが作品に込めた憤りであるのかもしれない。

 

 それではこの物語の最初から、不憫な犠牲者主人公ヨーゼフ・Kの足跡を辿って行きたいと思う。

 

 まず第一章、銀行主任のKは或る日の起き抜けに、隣人女性ビュルストナアの部屋にて、突然の逮捕を申し渡される。

勿論Kには身に覚えがなく甚だ不当な申し渡しであるが、当の申告者自身はただ命令通り動いているだけだと云うだけで一向取り合わない。

逮捕されたものの捕縛までに至ってないKは、ビュルストナアの留守中に起きた椿事を本人に詫びに訪れるも、彼女の魅力に寄せられ思いもよらぬ行動をとってしまう。

これはこれから起きる事のほんの前触れにしか過ぎない。

 

 続く第二章で審理に召喚されたKであるが、審理の場は既にごった返しており、目的も何もあったものではない状態の中、最初の審理が始まる。

この際の予審判事の”あなたは画家だったね?”との極めてかかった質問から、Kの不当な逮捕に関わる事実の誤認が始まっており、Kはこの場で必死で抗弁するも予審判事が予め仕組んだ舞台に体よく握り潰される。

 所謂はじめから仕組まれた虚構の法廷に対し、ありったけの皮肉を込めて異を唱えたKに対し、予審判事は被告が受けるべき利益を放棄したと訴えるものの、余りにも腐敗した裁判機能に憤りを覚えたKは引導を渡しつつ法廷を後にする。

この時点でKは、不正事実の出来レースという汚い罠に嵌まったことが窺える。

虚偽で歪められた明らかに不利な状況対し、独りで闘わないといけない不条理極まる現実と読み手を事実から遠ざける技法。

このあたりの表現はカフカにしか醸し出せない独特のものがある。

 

 第三章で再度出廷のため予審判事のもとを訪れるKであったが、生憎その日は休廷で予審判事は別に出廷中であることを彼の妻から告げられる。

その際、予審判事の尻の軽い妻に誘惑され、その不貞の相手の学生ともひと悶着起こしかかったKはほとほと神経をすり減らす。

つまりここで計画的か成り行きかは分からないが、色仕掛けで事実をうやむやにしてしまおうとする汚い企みが見え隠れしていると思える。

このような際に備え、妻が平然と不貞を働くように仕込んだ予審判事の黒い画策が、読後ありありと思い浮かんできた。

 

 第四章では隣人女性ビュルストナアが同居人を立て、Kを明らかに拒絶し始めている。彼女からしてみれば、第一章で思いもよらぬただの隣人のKから不当な接近を強いられたのであり、Kが不当な裁判に抗うのと同じで、彼女もまたKに対し無言の抵抗を試みている事が窺える。

 

 第五章では、第一章のKの逮捕時に見張り役に付いていた男たちが、Kの職場の倉庫にて、下着および朝食を奪った罪で鞭打たれる光景が見られる。

二度目にこの光景を見た際Kは呆れたのか、何事もなかったように倉庫のドアをピシャリと閉めてしまう。

つまり、裁判のあり方にすっかり不信を抱いているKに対し、法廷側からあくまで事実を公平に裁いている事を見張り人への刑をもってプロモーションしたのではと窺える。

 

 第六章ではKの叔父が登場し、ある弁護士への接見を取り計らう様子が描かれているが、ここでも事実を遠ざける要因として登場しているのが弁護士の助手レェニである。またしてもKは女性に誘惑され、叔父の努力空しく本題に辿り着かない。

 

 第七章では前章の弁護士から、裁判所と繋がりを持つある画家を紹介されたKは、自称顧問という画家から無罪主張についての方法を幾つか説かれる。

それは裁判官を抱き込めば如何様にもなると言ったような、明らかな不正を露呈したようなものでKを納得させようとしたが、ここも腐敗した状況に感づいたKは肉薄してしまう。

つまり法と秩序を尊ぶ機構が、上から下までズブズブに腐っていることが窺える。

また第八章では第六章の弁護士が、弁護依頼を掛け持ちしていた商人を圧力により制する場面がある。もうどこまでも腐っている。

 

 第九章で接待客に伽藍見学をすっぽかされたKはその寺院の僧侶から「掟の門」について説かれ議論を交わす場面がある。

僧侶はつまり、上級裁判は常に公平に門戸を開けていることを述べたかったのだと解釈するところであり、また不正と腐敗をぼやかすようなはたらきかけをしているように窺える。

 

 そして第十章、真実が何も見えないまま、憐れなKは処刑される。

 

 ありもしない不条理に負わされた罪と、予め仕組まれた不正に踊らされ、抗い続けたKであるが、たとえ間違っていても結局権力には適わないのだ。

 

また、本編では常に苛立っていたKであるが、断章された部分にはその姿は殆どなく、本来のKの姿が映し出されているような気がした。

カフカ作品の不可解で殺伐とした雰囲気を醸し出そうと、敢えて断章したのかもしれない。

 

この偉大な作品におけるKは作者カフカ自身の分身であり、その犠牲を払った訴えに哀切の意を唱えないではいられない。

 

 

 

読書ノオト・カフカの「審判」第十章および未完の断章

第十章 結末

 ある日の夜9時頃、シルクハットの男二人がKの自宅を訪ねてくる。
Kはその男たちに両脇を固められながら、何処ともなく歩を進める。

途中橋の欄干から見える、かつてKが昼寝していた長閑な川のほとりの情景が、これまでの殺伐とした空気をすべて帳消しするかのように美しく、一層Kの最期の時を予兆させる巧みな表現に感じる。
そして、警官からの問いかけに逃れるように走るK。今までにないKの動き。

やがて石切場に着いたKは、二人の男たちに身ぐるみ剥がされ(男たちはそれぞれ役割分担が決まってなく、その場でまごつくところがカフカらしい表現)、一方はKの喉元に手を回し、一方は胸に肉切り包丁を振り下ろす。

処刑場の上の方から誰かが見える。まだ見ぬ最高裁判所の裁判官なのか…⁉

Kは“犬のようにくたばる!”という最期の言葉とともに、何も明らかにされないまま、正に犬死にを遂げる。

この不条理な物語には、作者が意図して削除したと思われる幾つかの断章がある。
恋人、母親、最初に登場したどうしようもない三人の銀行雇員など、およそこちらの方が本編のように理屈っぽくコセコセしたものが無く、凡そ小ざっぱりした小説らしい描きぶりであるのだが、訳者に未完と位置付けられている点で、サイドストーリー的な感がある。それもそこそこの文量が断章されている。
中でも、「検事」「支店長代理との戦い」が面白い。

読書ノオト・カフカの「審判」第九章

 物語も大詰めを迎えるかと思いきや、一向に見えてこないKの罪業。
この章の前半は久しぶりに物語ぽくなっており、読むのに退屈しない。

第九章 伽藍
Kはこのところ銀行仕事において、接待ばかり任されるようになり、足許が覚束ない調子である。
今回も支店長からあるイタリー人の接待を任されることとなり、その顧客との面会の際、非常に多忙な顧客はせめて寺院だけでも見学を願いたいと、Kと午前10時の現地待ち合わせを約束する。
しかしながら、時間を過ぎても一向に現れないイタリー人顧客に痺れを切らしていたKは、薄暗い伽藍の中、寺男の誘導されるままに僧侶へ接近するも、伽藍を出ようとした矢先、僧侶へ呼び止められてしまう。
僧侶から、著者本人の短篇「掟の門」そのままの話を聞かされ、門番と門を通過しようとする男のどちらが掟に縛られていたかの論議を交わす。
Kはやがて僧侶から、自分は裁判所に属するものであるということを告げられ、先程の「掟の門」さながらの一言をかけられる。

“君から、何の要求をするものがあろう。来るものを拒まず、去るものを追わず。裁判所は、君から何物を求めない。”

 つまり、これまでの章で出てきた、裁判官より下級の者から聞かされた、裁判制度のあらゆる腐敗を覆すように、その上の階級の認識は裁判所は常に公平であると言うことが述べたかったのかと(上と下では随分思想が異なっている)、自分なり解釈する。

トーマス・マンの短篇「悩みのひととき」の通読により受ける詩人シラーの熱い情熱は、自分自身を奮い立たせるきっかけにもなる

 トーマス・マンゲーテとともに師事していた1700年代の有名な詩人に、フリードリヒ・フォン・シラーという人がいる。

(designACのイラストよりシラー)

 トーマス・マンの短篇の中に、シラーの創作までの苦悩と燃えるような情熱を綴った一作「悩みのひととき」がある。


 作中、詩人シラーは持病に悩まされ、これまでの自身の作品の在り方にさえも、ストイック過ぎる視点で見つめ直す程である。
所謂創作活動がスランプに陥った状況を想像するのであるが、彼はここから自分自身に鞭を打ち、作家としての不屈の精神を燃えたぎらせ、作品へ昇華させていくのである。

─悩みをそのままにしてどうする
─くよくよ悩む前に働け

 マンからシラーへの多大なるリスペクトが窺い知る事が出来るこの作品から、シラーのこの燃えるような強靭な精神を時々思い出しては、自分自身の気持ちを奮い立たせている。
小説でありながら、とても為になる作品である。