読める日の停車駅

千を超える蔵書を少しづつ少しづつ読んでいます。読んではいるものの、元来読んだ内容を忘れやすいので、内容や雑感を記しています。誰かに見て頂いている態で書くのは大変おこがましいので、淡々と記録のような書き方をすることもあります。

フレドリック・ブラウン「73光年の妖怪」

 わたしの思う読書の種類には、一度に通読できるものと、時間をかけないと通読できないものとの大きく二つに大別できると思っている。

 その違いは、簡単に言うと内容の軽重によるものと思っているのであるが、今回通読したフレドリック・ブラウンのSF作品「73光年の妖怪」は、私の中では明らかに前者に当てはまるものであった。

しかしながらただ読みやすいだけではなく、きちんと読ませてくれるのだ。

 実はこちらは二冊目で、最初の購入時からずっと未読で並べておいてた状態から約三年後、初期版のカバーが別にあることを知り購入に至ったもの。

写真のものは1965年の6版にあたるもので、カバーの色合いやタイトルフォントの種類等が、のちの通常版と異なっており、こちらの方がどことなく趣があるように感じられる。(内容は同じなので気持ちの問題ではあるが)

 

73光年の妖怪

 さて内容はというと、地球へ追放された73光年向こうの知性体が、自分の惑星へ戻るために一騒動を起こすというもの。

 知性体は、広範囲の視覚と知覚をあわせ持ち、生物に寄生(憑依のほうが適切かも)しながら生き永らえるという特徴を持っている。

ただし知性体が生物に乗り移るためには対象が眠っていることが必要であり、また別の生物に乗り移るには、今乗っ取っている生物が死なないとならないという不完全な条件がある。

 知性体の目的自体が自分の惑星に体よく戻ることであるから、より目的に近づくよう必要に応じて、生物の身体の乗っ取り→自害→乗っ取りを繰り返すのである。

知性体としては最終的に宇宙工学に秀でた人間を乗っ取ることが必定なのである。

 

 更に知性体が取り憑いた宿主の記憶や知性、特徴を把握できるため、たとえば人間を乗っ取った場合、家族同士の摩擦や本人の孤独感など、その人生の一片をセンチメンタルな視点で垣間見ることができる。

ただ知性体もなり仰せたつもりでも度々ヘマをやらかす。

人間の動作の奥深さに、どうしても後先が読み取れないでいるのである。

 

 また、知性体に感情は持ち合わせていないものの、損得感情はあるので、技術力の一方で余りにも生活が逼迫していた修理屋の男が知性体に見放されたのは、よかったようで悲しい事でもある。

 

 物語は6〜7割方知性体の目線で進むので、ある意味知性体への感情移入をしてしまうこととなり、知性体の焦りや驚きというスリリングな感情が伝わってくる。

 

 人間が知性体を見破ることができるのか?知性体が生物を乗っ取りながら上手く惑星に帰還するのか?

 

大変面白い読書体験となった。