寂寥感溢れるひと夏の悲しさ「悲しみよ こんにちは」F・サガン
多分読書会の選書にならなければ手に取ることがなかったであろう本書。
いつも背表紙を見ても気に留めることなかった一冊が、こうして読まれるようになること、そしてこれまで知らなかったり関心がなかった作品を読むことによりる新たな発見、読書観の変化も読書会ならではである。
「悲しみよこんにちは」F・サガン S43.5.20 51刷改刷
いつもの癖で出来るだけ珍しいカバーを探したところ、古書ほうろうさんの過去のツイートより、同じ新潮文庫版で鳥のカバー画があることがわかりメールを送ってみたところ、その後売り切れてしまったと、その日の内に丁寧にご返信いただいた。
いろいろ探して見つけたのが写真のもの。
これはこれで味わいがあり、よく見ると左側の模様の下側に模様とも女性の立ち姿とも取れそうなものが描かれている。
それは本作の主人公セシルのようにも思えてきた。
悲しみよ こんにちは
訳者 朝吹登水子のあとがきによると、本作は著者サガンが弱冠19歳の時に書かれたものとしている。
女蕩しの父親と娘セシル、彼らを取巻く情人たちのひと夏の出来事を、多感な16歳の少女の目を通して語られる本作は、実際これが19歳の書く作品かと思えるほど、大人の事情や情緒の変化を見事に表現しており、淡々とした筆致でアンニュイな情緒、空虚感・寂寥感漂うセシルの心情がよく映し出されている。
今の暑い夏の盛りに本作の舞台、地中海に面した海辺の暑い日差しを想像しながら、読んでみるのもいいかもしれない。
悲哀漂うユーモア番頭物語「駅前旅館」井伏鱒二
昨日までのお盆三連休、いつも以上の飲食に体重の跳ね返りを気にしつつも、最近誕生した新しい命の温もりを胸に抱き、我が子の時はどうだったかなと思い浮かべつつ、家族皆の笑顔を少しむこうから眺め、わたし自身もここに居る幸せを感じる。
そんなささやかな幸せを感じながら思い出すのがこの作品。
昭和初期の日本から多くの作品を遺してきた文豪、井伏鱒二が描いたユーモア作品「駅前旅館」である。
角川文庫S40.12.20 初版
既に新潮文庫版でカバーに本作の舞台「柊元旅館」のイラストが描かれたものを持っていたが、読書会で課題図書に選書していただいたことから、折角なのでカバーから拘りをもたせてみようと探してみたところ、今まで目にかかったことない角川版のカバーが見つかったので出品者様と交渉の上入手したのがこちらの一冊である。
昭和初期の雰囲気を漂わせる味のあるカバー画である。
駅前旅館
主人公「柊元旅館」番頭の生野次平がある日、遅い時間に温泉に浸かってウトウトしていると、昔馴染みの女❝於菊❞が二の腕をつねって行ったことが引き金となり、❝於菊❞を訪ねてを口実に、血気盛んな番頭仲間たちと碌でもない旅行を企て...
私が個人的に本作によく合うと思う言葉は紛れもなく「粋」である。
次平さんの視点をとおして語られる言葉のひとつひとつ、碌でもない番頭仲間との下らない悪ふざけに、新聞広告で募った女性たちとの下らない旅行計画。修学旅行生とのゴタゴタ。番頭さんしか分からないおもしろい符丁(業界用語)の数々。
いつもの居酒屋(おみせ)にいつもの顔ぶれ。うら若き日の威勢のいい呼び込み合戦の想い出...。
ちなみに男が集まって考えるのはどうしてこうも碌なことではないのかと思うのが、これを読まれた女性側の率直な意見であった。
チャラチャラと自分たちの遊びを謳歌しながらも、時代に取り残されてしまった番頭さんたちの不器用な生き方に、どこかもの悲しさを感じる。
時代の波に呑まれたであろう番頭さんたちがその後、時代に呑まれ変わらざるを得なくなったのか、それとも自分を貫きあくまで番頭稼業を続けたのか...底抜けに楽天的な男たちは、その後どのように生を全うしたかがわたしの気になる点である。
今の時代に失いつつある旧きよき日本の元気と情緒を感じさせる本作品のプロットはとても素晴らしく、いつの時代にも読み継がれるものであってほしい。
穏やかでやさしい隠れたSFの名作「ベティアンよ帰れ」クリス・ネヴィル
休日の穏やかな晴れた朝に読むのがよく合う本書クリス・ネヴィル著「ベティアンよ帰れ」。今朝読み終えた感銘の焔が消えないうちにこちらに綴りたいと思う。
かつてはダニエル・キイスの名作「アルジャーノンに花束を」と軒を連ねていたもののようであったが、残念ながら本書は既に絶版となっている本書。このような作品は是非復刊を願うばかりである上、映像化されても実によいと思う。
穏やかな日差しとと影がよく合う味のある本書のカバー画。
早川書房S47.11.30 初版
ベティアンよ帰れ
ある雪の日、交通事故で崖から落下した車から発見された赤ん坊。両親は既に事故で亡くなり、デイブ、ジェーンのセルドン夫妻が彼女を養女として迎えることになる。彼女は「ベティアン」と名付けられ、優しい両親の庇護のもと成長しながら、人との関りをとおして人間としての心を育みながらも、どこか孤独感を抱いている。
一方、安住の地を求め遠く宇宙を放浪するアミオ族は、様々な星の知的生命体との出会い、同族との哀しい別れをとおして絶滅の危機を感じ取り、幼いときに行方不明となっているアミオ族の末裔を探し始める。
大学生として立派な女性として成長したベティアンはアミオ族との邂逅をとおして、自分の本当の姿を知ることになる。
ベティアンの日々の暮らしとアミオ族の果てしない流浪の旅が交互に入替り、やがてひとつに交じり合う。静かに静かにただゆっくりと流れてゆく日々と優しい想い出、見慣れた日常の景色、ベティアンの記憶、そして決断...。
本作の❝帰れ❞は二つの意味が込められていると思う。
愛する両親のもとへ、もう一つはアミオ族のもとへ。
海外版「竹取物語」を彷彿させる本作は、登場する人々の一人一人に温かい血が流れ、愛する人が離れてゆく切ない気持ち、愛する人から離れてゆく気持ちをベティアンの眼差しをとおして教えられる。
この穏やかで優しい隠れた名作を是非手に取っていただきたい。
青年時代をめぐる回想「お菓子と麦酒」モーム
イギリスが誇る文豪の一人といえば、サマセット・モームが挙げられるのではないだろうか。
以前からモームは知っているものの著者の作品にまだ触れたことなかったのであるが、この「お菓子と麦酒」というタイトルに惹かれ、昨年末に購入してからというものしばらくの間本棚に積まれている状態だった。漸く今年のG.W終わり頃手にすることにした。
著者本人の晩年の作品であり、モーム本人もお気に入りの作品。
新潮文庫S57.1.30 30刷 モームの作品群の表紙のツートンカラーはいつも味がある。
お菓子と麦酒
終盤になってこのタイトルが堅物のテッドと自由奔放な魔性の女性ロウジーを象徴するものではないのかと少し分かった気がした。
亡きドリッフィールド(テッド)の栄誉を称え伝記を書きたいと友人に協力を依頼されたのをきっかけに、今はもう誰も知らないテッドとロウジー夫妻の本当の姿を、主人公のアッシェンデンが自らの青年時代と重ね合わせながらひとり回想してゆくというプロットの本作。
そこにはアッシェンデンとロウジー二人だけの誰にも言えない淡い秘密があり、ロウジーの影を追い求めるアッシェンデンの姿に心惹かれる。
このように人間描写と情緒を緻密に描く作品はとてもいい。
本当に読んでよかったと思える。
しかし、このタイトル「お菓子と麦酒(ビール)」のフレーズがとても好きなのだ。
岩波文庫からも訳者とタイトルを少し変えた同作が出版されている。
華麗なる翻弄「血の収穫」ハメット
かつて推理小説にハードボイルドスタイルを確立した偉大な米国作家ダシール・ハメットの傑作のひとつ「血の収穫」について綴りたいと思う。
講談社文庫S53.4.15 1刷
ちなみに本作は複数翻訳されており、自分なりのリサーチの結果、翻訳内容・カバー画のインパクトの点でこちらの講談社文庫版を入手した。
血の収穫
ギャングが我が物顔で蔓延り、汚職・縄張り争いにまみれ無法地帯となった鉱山町パーソンビル。(通称:ポイゾンビル)
❝この町には大掃除が必要だ。❞
嘘・裏切りと銃弾の雨あられの中、死の危険にたじろきもせず立ち向かう主人公のタフガイ、コンチネンタル・オプがならず者達を華麗に翻弄し、大掃除を実行する。
オプが街中をせわしなく動き回り、ギャング同士の闘争を巧みにけしかけ自滅を誘う様が最大の見どころである。
オプ(おれ)の視点で無駄なく淡々とした語り口で繰り広げられる究極のハードボイルドに、田中小実晶氏の翻訳が冴えている。
こちらは新潮文庫版
併訳の多さに、本作が世代を超えて愛されている作品であることが窺える。
早川書房からは「赤い収穫」で出版されている。